機能不全家族は「死にたい」のSOSを受け取れない:子供の自殺を止めるには(3)
子供の自殺を止めるのは誰の役目なのか
私の子供時代、父と母の夫婦喧嘩(DV有り)は大音声で行われていた。当然、近所迷惑だったはずだ。今思うと、警察に通報されなかったのが不思議なくらいである。
ただならぬ状況にあると分かりそうなものだが、触らぬ神に祟りなしの精神からだろうか。それとも亭主関白が良しとされていた時代の「あるある」だったから放置されたのだろうか。
いずれにしても近所の人達は、私の自殺未遂を意外には思わなかっただろう。「あの家だからね、そういう事もあるよね」と納得したに違いない。
私は自殺願望を家族に打ち明けることはなかったが、ひとりの親友にだけは「死にたい」と度々もらしていた。それはもう口癖のように「死にたい」と言っていた。親友の返しは「いいんじゃない?」であったが。
死んでもいいんじゃない?とは、また穏やかではないが、そういう子だったから私の友達が務まったのだろう。普通に考えたら「親友」ではないように思うが、私達はお互いのことを親友だと呼び合っていた。
私は親友が一番の心の拠り所だったから「死んだら枕元に立ちにいくね」と、幽霊になっても会いたいことを伝えたことがあるが、親友は「それはやめて」と拒絶した。
やはり親友ではなかったかもしれないが、そんな事より問題なのは、中学生が「死にたい」とSOSを出す相手が家族ではなかったことだ。
家族は私を受け入れてくれる存在ではなかった。むしろ、私を死にたい気分にさせているのが家族だったのだ。悩みがあっても相談されないどころか、死にたい原因が家族にあるのは、もはや家族としての機能を失っている。機能不全家族と断じていいだろう。
子供の友達が、子供の自殺を止められないことは、私が実証済みだ。機能不全家族も止められない。では、死にたい子供は誰に止めてもらえばいいのだろう。
理想は「子供の気持ちを分かってくれる身近な大人」であろう。子供は自分を受け入れてくれる相手にしか心の声を話さない。子供の周りにいる大人は、子供の心の声を話してもらえるように信頼関係を構築していかなければならない。
親は子供の心の受け皿になる心構えが必要
私は小学校低学年の時に、上級生男子2人組に嫌がらせをされたことがある。
その時、彼らのうちの一人が、突如、童謡のアイアイを歌いながらサルの物真似を私に見せつけた。上級生男子の目的は、合唱発表会でアイアイを歌う予定の下級生をからかう事だ。
これに腹を立てた私は、家に帰るとすぐ父にその事を話した。からかわれて悔しい思いをしたのだ。このやり場のない思いを分かってほしかった。
だが、父は強い口調で「だからどうしたのよ?」と恫喝気味に私を退けた。
小学生の私は「そんな事で腹を立てるほうが悪い。くだらない事をいちいち話すな」という意味に捉え、それ以降、私は自分の思いを父に伝えるのをやめた。
自己主張しない子供の出来上がりである。
あの時、父は平日の昼間にテレビの前で寝っ転がっていた。おそらく無職だったのだろう。その状況が生み出した事ではあったのだろうが、小学生が心を閉ざすのには十分な出来事であった。
自分を受け入れてくれない存在に心を開く道理はないのだ。親であるなら、子供の自己主張を根底から否定してはならない。
そうでなければ、「死にたい」のSOSも受け取れないだろう。