DV家庭が子供の自殺を招く:子供の自殺を止めるには(2)
DVは子供の感覚を麻痺させる
私は父と母が笑いあっているのを見たことがない。
無表情で最低限の会話をするか、嫌味を言いあうか、喧嘩をしている記憶しかないのだ。
私が小学生から中学生だった頃、父と母の夫婦喧嘩は壮絶であった。父の怒声、母の発狂、皿が割れる音。当然のように夫婦間の暴力もあった。
母は父に足蹴にされたり、髪の毛を引っ張られたり、風呂場の湯船に張ってある水に顔をつけられたりしていた。当時は分からなかったが、今でいうDV(ドメスティックバイオレンス)であったのだろう。
母の眉間には2センチくらいの古傷があった。父につけられた傷だ。物を投げられて切ったのだと母が言っていた記憶がある。
女性の顔についた一生消えない傷なのだ、父は恨まれてもおかしくないし、同情すべき内容であると今は思う。
だが当時の私は、母がその事について恨み言を言うと、「そんなことを大袈裟に言っても仕方ないのに」と思っていた。
暴力はあってはならないことだと分からず、「仕方ない」で済ませていた。
DV家庭に育った子供は感覚が麻痺しているのだ。
DV家庭続行か離婚か。子供の幸せはどっち?
ところで私の母はDVを受けていて、誰かに助けを求めたのだろうか。
答えはNOである。
母は実家に相談しなかったし、行政は力になってくれない時代であったと思う。ただ、堪えたのである。
あれだけの暴力を受けていながら、なぜ離婚しなかったのか。
いや、なぜ離婚できなかったのか、だろうか。
私は中学生の時に、離婚届を見たことがある。家のタンスの一番上の引き出しに入っていたのだ。子供の目に触れないよう高い位置に保管していたのだろうが、母の背を少し超えるまでに成長した私には無意味な対策であった。
いずれにしても、母が役所から離婚届を持ち帰ったのだと想像される。つまり、母には離婚する意思が少なからずあったということになる。そして、それを父が承諾しなかったということなのだろう。
母は当時、何を思っていたのだろう。
父が納得しなくても、離婚する方法はあったはずだ。母の母(私の祖母)に相談すれば、父に抗議してくれただろう。それでもダメなら、父の親や兄弟にDVの実態を暴露すれば良い。
父は離婚されて孤独になりたくないだろうが、親族からの集中砲火があれば、しぶしぶ離婚届に判を押したであろう。
だから、何が何でも離婚したいと母が思っていたわけではなさそうだ。可能性が高いのは、「離婚届は牽制の手段」であることだろうか。
母はプライドが高くて世間体を人一倍気にする人だったし、金銭的な問題もあっただろう。父親のいない子供にするのも心配であろう。だが、あの時に離婚していてくれたら、私は自殺などという愚かなことをしなくて済んだのかもしれない。
なんにしても、私は小さい頃から「幸せな家庭」とは縁遠い暮らしをしていたせいか、結婚というものに何の憧れも抱いていなかった。だから、女の子の夢でありがちな「花嫁さん」になりたがっている人を見ると、「この人の家庭は幸せだから、結婚なんてバカなことを考えるんだ」と中学生の頃の私は思っていた。
しかし、結婚を夢見ることは、人生における目標を持つことであり、生きるための理由にもなり得るはずだ。私にはそれが無かった。結婚したところで、何の希望もないことは自分の父母を見ていれば明らかなのである。
子供に夢も希望も見せないのは、DV家庭の効果のひとつなのだろう。断言できるのだが、私を自殺に導いた一番大きな原因は、この歪んだ家庭環境だ。
我慢のさせすぎが自殺リスクを高める:子供の自殺を止めるには(1)
自殺防止には「自己承認」が必要
私は10代の頃、自殺に失敗したことがある。
身バレは怖いのでボカシて書くが、普通生きていないよねと思われる方法でやらかして生き残った。その代わり、私は車椅子生活の身体障害者になった。
私より不幸な健常者はいくらでもいるから、私は自分が障害者になったことに悲観はしていない。だが、先天性の障害を持つ人に対してだけは後ろめたい気持ちになる。私は健常者として生まれながら、自らの愚行が原因で障害者となったからだ。
だが、先天性の障害者が私より不幸かというと、必ずしもそうではない。
私の幸せの尺度は、障害の有無ではないからだ。
「自己承認」が出来ているかどうかが、幸・不幸を分けると考えている。
自己承認さえ十分に出来ていたら、物理的に自分を殺そうとは思わないはずだからだ。自殺を考える原因は様々だと思うが、自己承認が破滅的に出来ていないのはどのケースにも当てはまるのではないだろうか。
「自殺するなんて、残される人の気持ちが分かっていない」という鉄板の意見がある。確かにその通りだと思うが、本音でそれを思う人は自己承認がある程度は出来ている人なのだろう。その人は残される側であるから、「残していく人の気持ちが分かっていない」のだ。
「死にたい」のは、死んだほうが楽(得)だと思える気持ちである。未来に希望は無いと信じて疑わないのだ。自分の一歩先が見えずに死を選ぶ人間が、どうして他人の損得を考えてあげられるのだろう。そもそも「自分が死んだら残念に思う人がいる。自分は重要な人物だ」と思える人は自己承認できている。
自殺を考える人はとても視野が狭くなっているから、他人を思いやる気持ちがストッパーになることは無いだろう。だからこそ、自分で自分を守るために「自己承認」が必要なのだ。
健全な人間関係は、損得勘定の上に成り立つ
私が恥ずかしい過去を文章にするのは、いくつかの理由がある。
自殺する子供を減らす一助になりたいという大義名分、未熟な親を戒めたいという上から目線の思想。
親のサポートが十分に出来ていない社会にも首をかしげている。
だが、何より私が自身を肯定して自己満足を得るのが最大の目的だ。
今の私はいわゆる「良い人」などではない。だが、自分の得になることが皆の得にもなれば良いとは思っている。
人間同士の関係というのは、そうあるべきなのだ。会社の同僚・上司・部下はもちろんのこと、友達、恋人、家族であってもだ。
無償の愛とやらは架空の物語でしか成り立たない。利害関係を一致させて初めて健全な人間関係が築けるのだ。くどいようだが、家族であってもだ。
親は子を育てることで、自分が一端の大人であることが証明できるし、自分の老後を子供に見てもらうことも期待できるだろう。
子は自立するまで親の世話になったのなら、親が老いたら世話をするであろう。
これは無償の愛などではなく、損得勘定で形成された人間関係だ。だが、そうあるのが健全であると私は思う。
そんな理屈を考えなくても、お互いを思いやることができる家庭なら、大変結構なことなので、そのまま続けてほしい。
私が問題視しているのは、一方的に求められる思いやり(我慢)についてだ。これは自己肯定感を著しく下げてしまう。
自分が過度の我慢をして、人を喜ばせることに注力してはならない。一時はそれで上手く回るようでも、長期的にみたら不幸しか生み出さないからだ。
ワガママを言わせない教育が、子供を追い込む
我慢を常にしていると「他者の利益を優先し、自己の利益を放棄した」という事実が、少しずつ精神を蝕んでいく。
私の過去は我慢の連続であった。しかも、それを当たり前の事として受け入れてきた。なんとも哀れな人間である。
なぜ、私は過度の我慢をしなければならなかったのか。
それは親が私に我慢を強要し、自己主張の機会を奪ってきたからだ。
私の親は無知な人であった。
我慢の美徳とやらが、将来にわたって子供を苦しめることを知らなかった。
その子育てでは、健全な人間関係を築くスキルが育たたず、我慢一辺倒の子供になるというのに。
私は我慢をさせるなと言っているのではない。我慢させすぎて、常に子供が損をする状況を是とするなと主張したいのだ。
「我慢の人」は良い人を演じたい哀れな人間だ。良い人でなければ、自分は価値の無い人間だと思い込んでいる。そうならないように、出来れば子育ての段階で何とかしてほしいが、もうそのように育ってしまった人は、勇気をもって洗脳を解く必要がある。
自己犠牲という言葉は美しく響くかもしれないが、惑わされてはいけない。自分が我慢をして不幸になると、周りも巻き込んで不幸にしてしまうものである。
不幸の連鎖を断ち切るには、まず自分が幸せにならなくてはならないのだ。